「生姜は、ただのありふれた薬草ではない。正しく使えば、命を救う急救の妙薬になる。世の中は珍奇な名薬で重病を治すことばかりに目を奪われがちだが、実は、身近で平凡な薬を極めて使えば、平凡は奇跡に変わるのだ」
指月は、祖父の言葉を何度も思い返していた。
ある日、祖父と指月は、山を下りて町の市に出かけることになった。
指月の心は、まるで小鳥のように弾んでいた。
走ったり跳ねたりしながら、道端の草花を踏み、木の枝に止まる小鳥に目を向けていた。
町に売っている「氷砂糖の串菓子(氷糖葫芦)」を想像するだけで、口の中に涎が溢れてきた。
そんな指月の頭を、祖父は煙管でコツンと叩いた。
「何をしている。さっさと歩きなさい。あれは、お前の物というわけじゃないのだよ」
指月には、その言葉の真意がまだ理解できなかった。
百年後、この体すら自分のものでなくなるのに、いま、欲に心をとらわれてどうするのか――祖父の言葉には、そんな深い意味が込められていた。
町の市に着くと、たくさんの人で賑わっていた。
指月は祖父が買ってくれた氷砂糖を舐めながら、「ちょっと曲芸を見たいです」と言って、その場に立ち止まった。
胸で石を砕いたり、喉で槍を受け止めたり――子どもの目には、どれも魔法のように映った。
さらに、後方宙返りや逆立ちなどのアクロバットが繰り出されると、歓声が市に響きわたった。
その時だった。
突然、宙返りをしていた若者が着地に失敗し、背中から地面に落ちると、そのまま動かなくなった。
どよめきが広がった。
「誰か医者を!」
「緊急だ!」
芸人の親方は青ざめ、あたふたとするばかりだった。
(きっとこの曲芸師は長年の鍛錬を積んできたはず。なぜ、こんな日に限って事故が起こったんだろう)
指月もその場で固まっていた――が、気がつくと祖父の姿が見当たらなかった。
「祖父!?」と辺りを見回すと、なんと祖父は麺を売るおばさんのところで何かを潰していた。
指月が駆け寄ると、祖父は麺用のどんぶりをひとつ指月に手渡して言った。
「急いで小便を取ってきなさい。できるだけ早くだ!」
理由は分からなくても、祖父の言葉には逆らえない。
指月は急いで裏手に駆け込み、どんぶりに小便をした。
急いで戻り、どんぶりを祖父に渡すと、祖父は生姜をすり潰したものを指月の尿に混ぜ、指でかき混ぜ始めた。
辛味のある生姜汁と温かい童便が一体となった。
祖父はその器を手に、倒れた青年のもとへ素早く向かった。
周囲が混乱している中、祖父は迷いなく、その液体を青年の口元に注ぎ込んだのだ。
「これで大丈夫だ」
そう祖父が呟いた次の瞬間――
青年は、むせて咳き込むと、目を開いた。
何度か深呼吸をすると、真っ白だった顔に赤みが戻ってきた。
周囲は驚きと歓声に包まれた。
指月は、ただただ呆然と見つめていた。
(すごい! いったいどんな薬なんだ?)
拍手が巻き起こる中、「あの方、あの茅葺の家の先生じゃないか?」という声が聞こえてきた。
祖父は指月の手を引くと、「急ぎの用があるので、これで失礼」と言って、そそくさとその場を後にした。
祖父は人の集まる場所が苦手だった。
静けさを何より好む人なのだ。
家に戻ると、祖父と指月はいつもと変わらず書物を読んだ。
さっきの騒ぎも、まるでなかったかのように、淡々と。
指月はノートを取り出し、祖父が開いてくれた古書の一節を書き写していた。
『広心法附余』に曰く:
凡そ中風・中暑・中気・中悪・霍乱など、あらゆる突然の病は、生姜汁と童便を共に服用すれば、速やかに解かれる。生姜は痰を取って気を下げ、童便は火を降ろす。
書き終えた指月は、ふと疑問を口にした。
「祖父、もし道中で生姜が手に入らなかったら、どうすればいいのでしょう?」
祖父はにっこり笑って言った。
「慌てる必要はない。童便だけでも、打撲や気絶には効く。熱いうちにそのまま飲ませるのがポイントだ。意識のない者には、少し多めに与える。こぼれてしまうしね。重傷なら目を覚まし、軽傷なら瘀血を流し、気機を整え、体の回復を早めてくれる」
そう言うと、祖父は本棚から『外科心法』という古書を一冊取り出した。
すでにページの角が折られている箇所を開き、指月に手渡した。
指月は一読すると、感嘆の声を上げた。
「わぁ! なんてすばらしい!」
まるで干からびた苗が、甘露の雨に潤されるように、指月は喜びを感じた。
急いでノートに筆を走らせた。
打撲傷は、体格や瘀血の有無を問わず、熱い童便を飲ませるのがよい。酒を少し加えれば、代謝が上がり、効果はさらに良くなる。胸や脇が脹って痛むとき、発熱によるいらだち、口が渇いて冷たいものを欲しがるときも、温かい童便を一椀飲ませれば、あらゆる薬よりも効く。
他の薬ででは、体内に瘀血があるかどうかを見極められなければ、かえって害をなす恐れががある。童便だけは、五臓六腑を乱さず、気血を傷つけず、決して誤ることがない。
この日、指月のノートには、またひとつ、貴重な命の知恵が刻まれた。
いつか、誰かを救うための知恵だ。
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