祖父と孫の中医学物語 第四話 麻黄と鬱と宣肺と

中医学物語

「うわあぁぁぁ!」

村人は絶望に打ちひしがれました。

長い間、苦労して育てた広大な畑の作物を、台風に吹き飛ばされ、すべて失ってしまったのです。

泥水と共に岩や倒れた木々が流れ込み、畑は見るも無惨な状態になりました。

彼は倒れたグチャグチャになった畑を見ると、打ちひしがれ、失望し、無力感に苛まれました。

まるで風船から空気が抜けるように、力が抜けてうずくまりました。

負の感情が一斉に襲いかかり、彼は耐えきれないほどのストレス受けてしまったのです。

「五年間も育てたのに……」

土地を開き、土を耕し、苗を植え、ようやく五年目にして作物が収穫できるまでになったのに、その努力が実を結ぼうとしていた矢先の台風でした。

家族全員の希望が、一回の台風で全て破壊されてしまいました。

その光景を目の当たりにした彼は、自分も一緒に壊れてしまったように感じました。

感情の乱れほど病気の進行を速めるものはありません。

感情が乱れた後は、あらゆる病が生じやすくなるのです。

畑を失って以来、彼は長い間鬱々としていました。

食事もほとんど取らず、家族がいくら励ましても、彼の顔には笑顔が戻りませんでした。

彼はため息をつきながら、無言で過ごしていました。

いつも真面目に働いていた彼はの姿はどこにもありませんでした。

家族は彼を何人もの医者に診せました。

逍遥散や柴胡疏肝散を処方されましたが、何度肝気を疏通しても、彼の顔には笑顔が戻らず、鬱々としていました。

無情の草木で有情の病気を治療するのは本当に難しいのです。

一人の医者に「茅葺き屋根の家に住む医者を訪ねるといい」と言われたので、家族は彼を連れて茅葺き屋根の家を訪ねました。

家に入って数分も経たないうちに、彼らは出てきました。

その手には、麻黄湯の処方がありました。

彼らは町の薬房に薬をもらいにいきました。

この薬房の主人は、彼を診た医者の一人でした。

薬房の主人は町でも名の知れた名医で、茅葺き屋根の医者に対して反発心を抱いていました。

他の医者が治せなかった病気が、茅葺き屋根の医者が診ると治ってしまうのはなぜなのか、ずっと気になっていたのです。

この頑固な抑うつ症状に対して、薬房の主人も色々な薬を調整し使ってみましたが、すべて無効でした。

最も効果的な処方だと思っていた、小柴胡湯や柴胡加竜骨牡蛎救逆湯でも、何の効果もありませんでした。

薬房の主人は、「情志病は草木では治せない。心病には心薬(心理療法)が必要だ」と考えていました。

(この患者が再び畑を手に入れなければ病気は治らないだろう。どんな処方をしたか知らないが無駄だ)

薬房の主人は処方箋を受け取り中を確認しました。

そこにある美しい筆跡を見て、これは徒弟が書いたものであると分かりました。

なぜなら、ここ数年、茅葺き屋根の医者は筆を取らなくなり、処方箋は徒弟が代わりに書いていたからです。

『麻黄、杏仁、桂枝、甘草』

薬房の主人は驚きました。

(この患者は鬱であって、風寒外感もなく、頭痛や身痛、悪寒や発熱、咳や喘息、水腫もないのに、なぜ麻黄湯を使うのだ?)

考えれば考えるほど理解できませんでした。

主人は考えるのを諦め、「どうせ治せない病気だ」と思いながら麻黄湯を患者に渡しました。

三日後、この患者は元気な姿で鍬を持って、再び畑を耕し始めました。

以前の抑うつはまるで煙のように消え、今は喜びが全身から溢れていました。

村人たちは驚きましたが、その後すぐに納得しました。

皆、これが茅葺き屋根の医者の手によるものであることが分かったからです。

皆、遠くに見える茅葺き屋根の家に、自然と敬意の念を抱くようになっていました。

茅葺き屋根の家は、村人たちの心と体の守り神の様な存在なのです。

そんな中、この男だけは村人と異なる感情を抱いていました。

麻黄湯を手にした薬房の主人です。

鬱が良くなった患者の存在が、「無情の草木では有情の病気を治せない」という自分の考えを覆してしまったからです。

彼いてもたってもいられず、すぐに茅葺き屋根の家を訪れました。

戸が開き、指月が出迎えました。

葯房の主人は指月にお辞儀をし、「先生はいますか?」と尋ねました。

「中でお待ちください」

指月は葯房の主人を診察机へ案内し、熱々の緑茶を淹れました。

茶を一口すすり、机に置くと「こんにちは」と奥から茅葺き屋根の医者が現れました。

「突然の訪問、申し訳ありません。先生にどうしてもお伺いしたいことがあるのです。なぜ麻黄湯で鬱を治療できるのか、お聞きしたいのです」

「あの患者の脈に触れたかい? 脈象はどうだった?」

葯房の主人は何度もあの村人を診察していたため、脈象はよく理解していました。

「両寸脈は浮、両関脈は弦で、気が鬱滞していました」

老先生はさらに尋ねました。

「汗をかいていたかな?」

「汗はかいていません」

中医学の問診法で有名な十問歌の中に「汗を問う」とあります。

葯房の主人は当然、汗についても知っていました。

「患者には寒気も悪寒もありませんでした。病気の間は働かず家にこもっていたようなので、汗をかくこともなかったそうです。診察の時も汗をかいていませんでした。気滞による抑うつのため、疏肝理気が必要だと考えました」

茅葺き屋根の医者は指月に向かって言いました。

「脈が浮いていて、汗が出ていない場合、まず何をすべきか?」

指月はすぐに答えました。

「諸症はまず解表し、その原因が肌表にある場合は発汗させます」

主人はその言葉を聞くと、はっと悟りました。

迷いが晴れ、そこに真理がみえたのです。

「私は寒気や頭痛がないと麻黄湯を使えないと思っていました。先生は麻黄を使って風寒を治すのではなく、麻黄を使って解表することで抑うつ症を治療したのですね」

そう言いながら自分の頭をバシッバシッと繰り返し叩いていました。

「これは、本当に抑うつ治療の新たな扉を開くものです。私は古典を読み漁りましたが、このような記載を見たことがありません。先生はどのようにして麻黄湯で抑うつを治療する術を学んだのでしょうか?」

「灯台下暗しですね。古典を読み漁るのはいいが、最も重要な古典をじっくりと読むことも必要だ。黄帝内経には、『諸気愤憤郁,皆属于肺』とある。だから麻黄は鬱を解くことができ、その妙技は宣肺にあるのだよ」

薬房の主人は再び大きな衝撃を受けました。

疑問がすべて晴れました。

「麻黄で鬱を解く! その妙技は宣肺にあるのですね!」

「宣肺は窓を開けるようなものだ。風寒を体外に追い出すのはもちろん、鬱々とした気を体外に排出することもできる。脈が浮いて汗が出ていない者には、全てこれを使うことができる。寒気や頭痛にこだわる必要はないよ」

「この言葉はまさに経典となり得るものです。医者の悟りを開く指針となり得ます。老いぼれの私も、今日ここで教えを受かりました!」

薬房の主人は心から感謝し帰っていきました。

指月と祖父は顔を見合わせて笑いました。

病人を救ったり、誰かの疑問を解決した後は、いつも同じように顔を見合わせて笑いました。

指月は、あの抑うつの村人がやってきたときを思い出しました。

その村人が来たとき、彼は空気が抜けた風船のように、力無く診察室の床に倒れていました。

すでに祖父はこの村人に起こったことを知っていました。

診察をするのではなく、茅葺き屋根の家の一角に彼を連れて行きました。

(何をするために?)

祖父は彼にちょうど出来上がったばかりの大きくて美しい蜘蛛の巣を見せました。

「昨日、大雨が降り、この家の蜘蛛の巣を一掃したが、蜘蛛は命を絶つことなく、次の日には再び立ち上がり、さらに美しい蜘蛛の巣を作り上げたね。私は人間が蜘蛛に劣るとは思わない。あなたもそうではないかな?」

老先生はそう言って彼の背中を優しく叩きました。

彼は祖父の言葉に隠された意味を感じ取ると、身体全身が震えました。

そして、目の前の霧が晴れ、力がみなぎってきたのです。

「農夫は耕作を問うべきであり、収穫を問うべきではないのです」

その後、祖父は小指月に言いました。

「脈が浮いて汗が出ない場合、何を使うべきかな?」

指月は答えることなく、紙に麻黄湯の処方を書きました。

彼の病気は一刻もかからずに解決されたのです。

しかし、この短い時間が、彼に再び気力を取り戻させました。

彼はすぐに畑を耕し始めました。

何日もかけて泥や倒木を片付け、畑を耕し、苗を植えました。

そして再び収穫を迎えることができたのです。

彼は家族と共に幸福な生活を取り戻しました。

人間は、大自然からどれだけ得るかによって幸せになるのではなく、地道に耕作を続けられることに幸せを感じられること、そして今の生活に『足るを知る』ことで幸せになれるのです。

努力を続けることで幸せを得ることができるのです。

彼が再び鍬を取り、畑に立ち汗を流して働いているとき、かつての鬱々とした気は汗とともに解消され、風とともに消え去りました。

第四話 麻黄と鬱と宣肺と 完


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