春と夏の交わるころ、薬草は茂り、山には無駄な草など一つもない。
至るところが薬草の宝庫。
祖父と指月のふたりは、薬籠を背負い、草鞋を履き、笠をかぶり、竹の杖を手に、完全装備で山へと深く分け入っていった。
指月は、臨床の合間に祖父の話を聞くのと並んで、もっとも楽しみにしているのが、この山中の薬草採取だった。
ただ、祖父は決して指月を山の最奥まで連れて行こうとはしなかった。
それが指月にとっては何とももどかしく、心の奥がむず痒くなるような思いだった。
というのも、珍しい花や薬草は決まって人跡まれな深山幽谷に生えるもの。
人の足の届かぬ奥地にこそ、奇薬は眠っているからだ。
なぜそんなことがわかるのか?
それは指月がすでに『古文観止』を読んでいたからだ。
「世の偉く瑰(たぐい)なく怪しき非常の観は、常に険遠に在りて、人の至ること稀なり。故に志ある者にあらざれば至る能(あた)わず」
意味:この世で最も偉大で、珍しく、驚くべきような非凡な景観は、たいてい人里離れた険しい場所にある。そのため、そこにたどり着けるのは、強い志を持った者だけである。
薬草もまた、まさにそれと同じ理に従うのである。
指月はいつも、もう少し奥へ、もう少し深く山に入ろうと祖父に懇願していたが、祖父は決まって笑いながらこう言った。
「山の奥には猛虎がいるぞ。お前みたいな小さな子が行くなんて怖いだろう?」
その言葉を聞いて、指月は思わず身を縮めた。
以前、動物園で虎を見たことがある。
あの堂々たる巨体を思い出すだけで背筋が寒くなる。
そんな虎が本当に山にいるのかと思うと――しぶしぶながらも祖父の言葉に従うしかなかった。
祖父は、そんな指月を少し不便に思った。
「まずは武術をしっかり身につけなさい。毎日、立禅を怠けてはいけないよ。お前が大きくなって、足腰の力も鍛えられたら、その時は一緒にもっと深い山へ薬草を採りに行こう」
その言葉を聞いて、指月の顔にはようやく笑みが戻った。
いつか、自分も深山幽谷の秘境を探りに行ける日が来る――そう思えば、心が弾むのだった。
谷の中腹に差しかかったとき、突然「助けてくれー!」という叫び声が響いてきた。
二人はその声を聞くやいなや、互いに目を見合わせて、すぐさま足を速め、叫び声が聞こえた方角へと走って向かった。
指月は必死に祖父の背を追いかけた。
だが、どうしても追いつけない。祖父の走りはまるで風のように軽やかで、足音すら聞こえない。
指月は息を切らし、胸を上下させながらも、前方の祖父からはまったく息が切れていない様子が不思議でならなかった。
「おかしいな……」
普段の祖父は、いかにも年老いた風で、ゆっくりと歩き、指月が急ぐと「ゆっくり歩け」とたしなめるほどだった。
指月はずっと、祖父はもう速く歩けないのだと思い込んでいたのに、今はどうしたことか、自分がどれだけ頑張っても追いつけない。
ようやく追いついたとき、祖父はすでに倒れている男のそばにしゃがみ込み、その脈を診ていた。男の顔は青ざめ、腕は腫れ上がり、まるで丸太のように太くなっていた。
傍らでは女が涙ながらに必死に訴えていた。
「お願いです、うちの人を助けてください!お願いです、早く……!」
祖父は脈を診ながら尋ねた。
「何があったんだ?」
女は汗だくで、焦りのあまり言葉もままならなかったが、かろうじて一言だけ絞り出した。
「黒い蛇に噛まれて……!」
その一言で、状況はすべて明らかになった。
後ろから追いついた指月は、肩に背負った薬籠を地面に下ろし、ぜいぜいと息を吐いていた。
すると祖父が声をかけた。
「指月、『蛇薬丸』を出してくれ」
祖父はさらに指示を出した。
「そこの谷川の水を、少し汲んできて」
指月はすぐに走っていき、手近な岩の間から流れる清水を取って戻った。
祖父はその水で薬丸を溶かし、それをゆっくりと農夫の口元へと注ぎ込んだ。
「みぞおちはまだ温かく、脈もはっきりしている。助かる見込みはある」
薬を飲ませた直後、農夫は数回むせこんだ。
腹の奥から「ぐるぐる」と音を立てたかと思うと、激しく嘔吐した。
傍らの婦人はそれを見て、顔色を変えた。
「だめなのですか……?」
声にならない声で、今にも泣き崩れそうだったが、祖父は静かに手を挙げて制した。
「落ち着いて、しばらく待ちなさい」
そのまま数分が過ぎたころ、農夫がうっすらと目を開けた。
瞳に生気が戻り、意識が少しずつはっきりしていく。
腫れ上がって黒ずんでいた腕も、次第に赤みを帯びてきた。
「もう少ししたら、自分で体を起こせるまでに回復するだろう」
婦人は驚きと喜びが入り混じった顔で、しきりに頭を下げた。
「本当に……ありがとうございます……どうやってお礼を……」
祖父はにこやかに言った。
「この辺りは蛇が多い。下りる前に竹の杖で草を叩いて、蛇が逃げられるようにしてあげなさい。茂みの中にいきなり足を踏み入れてはいけないよ」
そして指月が、余った薬丸を小さな紙に包み、婦人に手渡した。
「これを家に帰ってから、もう一度飲ませなさてください。体に残っている毒を、しっかり追い出すためです」
家に戻る道すがら、指月はずっと考え込んでいた。
祖父はその様子に気がついた。
「指月、なにを考えているんだい?」
「今日、ようやく、あの白芷の入った蛇薬丸のすごさを目の当たりにしました。前は、白芷といえば頭痛や美容の薬だと思っていましたが、蛇毒を解いて人の命を救うとは、本当にすごい薬だったんですね」
祖父はにっこり笑って言った。
「『名医類案』を引いてごらん。白芷は、ただの薬じゃないということがわかるはずだよ」
臨川に、蛇を扱って薬を売る者がいた。
ある日、蝮蛇に噛まれたが、すぐに意識を失って倒れた。
片腕はたちまち腿のように腫れ上がり、やがて全身の皮膚が黒黄に変色し、絶命した。
その場にいた一人の道人(道士)はそれを見てこう言った。
「この者は死んだように見えるが、わしには効く薬がある。ただ、毒がすでに深く回ってしまっていたら、治せないかもしれぬ。それでもやってみよう」
皆は驚きつつも期待した。
道人はその場にいる人たちから二十文を借りて走り去った。
やがて戻ると、汲みたての水を所望し、持ってきた薬をその中に解き、杖で傷者の口をこじ開け、薬水を飲ませた。
薬が尽きるころ、腹の中がゴロゴロと鳴り始め、口からは黄色い水が逆流して噴き出した。
ひどく臭く、人が近づけないほどだったが、四肢の腫れは見る見るうちに引き、しばらくすると元の姿に戻った。
その者は意識を取り戻し、何事もなかったかのように起き上がった。
周囲の人々に深く頭を下げて礼を述べた。
道人は言った。
「この薬は簡単に用意できるものだ。皆に教えよう。これは香白芷という薬草だ。本来は麦門冬の煎じ汁で服用させるべきだったが、急ぎのことゆえ水で代用した。今日はひとり救ったから、もう良かろう」
そう言うと、すっと袖を翻して去っていった。
この話を知った郭邵州という医師がその方を記した。
後にある鄱陽の兵士が、夜の見張り中に蛇に腹を咬まれた。
翌朝には赤く腫れあがり、裂けるような痛みに苦しんだが、同じ薬を服用するとすぐに快癒した。
指月はまた考え込んだ。
(なぜ白芷が蛇毒を解けるのか? なぜ多くの蛇毒を治す薬に白芷が欠かせないのか?)
だが、祖父はいつも答えをすぐには教えてくれない。
自分で考えて悟るようにと促してくれる。
だから今回も、ただひとことだけを指月に残した。
「解毒には、陽明を離れてはならない」
指月は長く思案を重ねた末に、ようやく一つの筋道を思いついた。
正しいかどうかはわからないが、ノートにこう書き記した——
陽明経は、全身の汚れと濁りを最も多く抱える経絡である。
五臓六腑の諸々の毒素は、すべてこの陽明の胃腸を通して下へと排出される。
ゆえに、陽明の胃腸が順調に通降すれば、あらゆる毒もまた自然と降りる。
白芷は陽明胃腸経に善く入る。
陽明経の盛んな気を受け、その性質を帯びる。ゆえに、穢れを清め、胃腸の排濁を助ける力を持つ。
すべての陰湿の邪が、筋肉や血脈に侵入したときも、最終的には陽明胃腸がその毒を受け止め、排出する役目を担う。
それはまるで、土中に埋められたごみが、やがて土壌により分解されるようなものだ。
そして白芷は、その土壌の働きをさらに強化する薬なのである。
白芷が他の薬と異なるのは、腫れを消し、膿を排し、痛みを止める作用をも併せ持つ点にある。
これこそが、他の陽明経の薬ではなかなか及ばぬところであり、蛇毒により起こる腫れ・膿・激痛――これらの命に関わる急症において、白芷が真価を発揮する所以である。
その後、指月は白芷に関するいくつかの経験方を書き写した。
『衛生易簡方』にはこうある――腫れと毒による熱痛には、白芷の末を酢で練って塗布せよ。
『冰湖集簡方』にはこうある――刀や剣による傷には、白芷を噛み砕いて患部に塗布せよ。
『経験方』にはこうある――癰腫や赤く腫れた膿瘍には、白芷と大黄を等量にし、粉末にして米のとぎ汁で服用せよ。
書き写しているうちに、頭の中が整理されていった。
「この理屈、ようやく全部が腑に落ちました。蛇毒による腫れや膿に効くくらいだから、普通の腫れ物や癰腫に効かないはずがありません」
なるほど、だからこそ祖父は言ったのだ。
「蛇毒を治せる者は、すべての原因不明の腫れ物や癰瘍をも治せる」と。
すべては繋がっていた。
白芷が陽明胃腸を助け、筋肉の生理機能を促し、新陳代謝を支える薬であるからこそ、腫れを消し、膿を出す力に長けているのだ。
蛇毒による膿疱を癰腫として治すこともできるし、逆に癰腫を蛇毒と見なしてもよい。
どちらも治の道理は一つなのだ。
指月は、一つの理を理解すれば、百の理をも理解することができることを知った。
ようやく自分で考え、自分の頭で理解し得たことがうれしくてたまらなかった。
そしてついに悟ったのだった――
なぜ祖父が、治しにくい皮膚の化膿やただれに「蛇薬丸」を用いて効果を上げていたのか、その理由を。
消腫止痛の対照実験
排膿止痛の理を理解したとたん、指月はむずむずしてきた。
どうしても臨床で試してみたくなったのだ。
ちょうどよいことに、いつものように山で薬草を採って戻ると、両脚に何本もの蔓の棘で傷ができていた。
出血し、かさぶたになっても、普段なら十日か半月は完治しない。
今回も例外ではなかった。
指月の足の甲には、藤の棘による擦り傷がいくつかあり、軽いながらも腫れて痛んでいた。
いつもなら、こんな軽い外傷に祖父は見向きもしない。
薬棚には金瘡薬(金瘡は刀傷のことで、切り傷、腫れものに効果がある薬を指す)が山ほどあるから、適当に塗っておけば数日で癒える。
だが今回は違った。
指月はにやりと笑って言った。
「これはいい機会だ。白芷の臨床試験をしてみよう」
そして思いついたのが対照実験だった。
傷がややひどい左脚には、白芷の粉末を酢で練って塗布し、一日に一〜二回取り替える。
反対側の比較的軽い右脚の傷は、何もせず自然にまかせてみた。
するとどうだろうか。
三日後、白芷を塗った方の傷は腫れも痛みもすっかり引き、患部の痕すら目立たないほど薄くなった。
さらに数日続けてみると、ほとんど跡形もなくなった。
一方、薬を塗らなかった側はまだ腫れが残り、痛みもわずかに続き、痕も明らかだった。
そこで洗ってから白芷を塗ってみたところ、やはり明らかに快方に向かった。
指月はすぐにノートに書き記した――
入山採薬中、左脚を藤の棘に傷つけ、局所に明らかな紅腫疼痛を生じたため、白芷を細粉とし、酢で練って患部に貼付。毎日二回の貼り替えを実施。三日後には腫れが引き、痛みも止み、瘢痕も残らず。白芷には、消腫止痛、肌を再生させ、痕を薄くする力があると証明された。
――白芷、侮れぬ薬なり。
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