荊芥――それは、数ある風寒を発散する薬の中でも、とりわけ薬性が穏やかでありながら、血分にまで作用して風を祓うという、実に稀有な存在である。
ある村に、一人の男がいた。
夜ごと雀卓に向かい、明け方まで金を賭けては熱中する。昼間は布団に潜り込み、日が暮れるまで眠る。
家族も友人も、何度となく忠告したが、彼の耳には何一つ届かなかった。
「こんな男、どうしたものかね……」と、小指月が祖父に尋ねると、祖父は静かに笑いながら言った。
「親でも諭せぬ者も、病が来ればすんなり言うことを聞くものさ。人は病まねば悟らぬ。黄河まで行って初めて溺れると知るように、苦境に至らねば回心できぬのだよ」
まさにその言葉の通り、彼にも転機が訪れた。
はじめは目がくらみ、少しふらつくだけだった。疲れのせいだと気にもとめなかったが、日に日に症状は重くなっていった。ついには両目に出血が見られ、猛烈なかゆみに襲われる。
目のまわりは真っ赤に腫れ上がり、周囲の人々は彼を見るなり身を引いた。
「何か恐ろしい病にかかっているのではないか――」
噂が立ち、友人たちさえ近づかなくなった。
さすがに命の危機を感じた男は、あわてて医者を訪ね歩いた。
ほとんどの医者は「肝火が上昇している」と診て、降火の薬を出したが、どれを飲んでも効き目がない。
腫れも出血も止まらず、かゆみもひどくなる一方だった。
頭はぼんやりと重く、視界もかすむ。
全身がだるく、心まで弱っていくようだった。
それから半月、男は寝床に伏したまま動けなかった。
家族は「悪鬼が目をふさいでいるのでは」と疑い、神仏に祈り、護符を貼り、あらゆることを試したが、どれも効果がなかった。
こうして男は家で寝込んだまま半月が過ぎたが、症状はいっこうに回復しなかった。
あまりにも治らないので、ついには家族までもが「これは悪霊に眼を塞がれたに違いない」と言い出し、神に祈り仏にすがる始末だった。
しかし、どれもこれも効果はなかった。
やがて、どうにもならなくなった男は、ついに茅葺の家を訪ねた。
男の過去を聞いた祖父は静かに言った。
「このまま放っておけば、やがてお前の目は完全に潰れる。何も見えなくなるだろう」
その言葉を聞いた途端、男は膝を折り、汗をだらだらと流しながら叫んだ。
「先生、どうか、どうか慈悲を……私を助けてください!」
だが祖父は、静かにこう答えた。
「私が救うんじゃない。自分で自分を救うんだよ」
男は戸惑いながら、口の中で繰り返す。
「……俺が、俺を救う……? そんなこと、できるのですか?」
祖父は微笑んで、言葉を継いだ。
「病は自らが招くもの。ならば、癒すのもまた自分次第だ。きみは、目を休ませたことがあるかい? 何年も、夜になっても目を閉じず、雀のように、鼠のように、眠りを知らずに夜通し起きて、賭け事に夢中だったろう? この目が悪くなるのは当然のことだ。誰が壊したでもない、きみ自身が壊したのだ」
そして、こう続けた。
「薬で治せるのは、せいぜい三割。残りの七割は、きみ自身がどう養うかにかかっている。今後、夜更かしをやめられるかな? 目を閉じて、眠れるようになるかな? ――それができないなら、どんな薬も効きはしない」
賭事に明け暮れる男は、祖父の言葉を聞いたあと、しばらく迷うような顔をしていたが――やがて、まるで何かが吹っ切れたかのように、拳を握って何度も何度も深くうなずいた。
「やる、やります……! できますとも!」
祖父はにこりと笑った。
「病というのは、眼を奪おうとしているんじゃない。きみに“休め”と伝えているのだよ。――目を養うのは、薬よりもまず眠ること。これ以上の保養法はない」
そして、今回限りの“切り札”として一つの処方を授けた。
「だが、もしまた同じことを繰り返せば……この薬すら、もう効かないよ」
その言葉とともに、指月は棚から取り出した一瓶の粉末を男に差し出した。
それは、あらかじめ用意していた荊芥穗の粉末だった。
「これを一回につき三銭(約10gほど)、酒と一緒に飲みなさい」
男は半信半疑ながらも、指示通り三日間飲み続けた。
すると――赤く腫れていた目元はみるみる引いていき、あの耐え難かった痒みも治った。
かすんでいた視界が嘘のように澄みわたり、脳に漂っていた重だるさや頭痛さえも、跡形もなく消えていた。
今回の発病で、彼はまさに“盲目になる寸前”から引き返したのである。
それがどれほど危うい橋だったのか、身をもって悟った男は、自分の体に改めて向き合うようになった。
「命を削ってまで賭け事を続けるのか? この先もまともに生きたいなら、もっとましな道を選ばねば」――そう考え直した男は、ついに博打をやめた。
村人たちは、「またひとつ悪癖が消えた」と喜び、指月は手元のノートに、そっと一文を書き写した。
――『眼科龍木論』曰く:
「すべての眼病、血の疲れ、風邪による頭痛、目まい・ふらつきに対しては、荊芥穗(けいがいすい)を粉末にして、酒で三銭(約10g)服用すれば、たちまち癒える」
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