天気が寒くなったり暖かくなったりと変化する時期は、年配の人には辛く、また子どもたちも風邪をひきやすい。
最近は気温がぐっと下がり、子どもや高齢者の感冒や喘息が一気に増えてきた。
そんなある日、咳き込みながら、ひとりの高齢男性が茅葺の家を訪れた。
白髪交じりのその姿は、杖をつきながら、歩を進めるごとに呼吸を整え、力を振り絞っているようだった。
指月はその様子を見るなり、すぐに駆け寄って支えると、診察机まで案内した。
彼は農夫だ。
長年、農業を生業とし、風に吹かれ、雨に打たれながら畑を耕していた。
帰宅後には、風寒を散らすために、酒を一杯ひっかけるのが日課だったという。
しかし、風寒は酒で散じても、その湿濁は身体に残り続けていた。
――たしかに、酒というものは、血を巡らせ寒を除く妙薬だが、飲みすぎれば身体を害する。
「どこが一番つらいのですか?」と、指月は尋ねた。
彼は答えようとすると、ゲホゲホと咳き込んでしまった。
「ふぅ、すまない。胸がいつも重くてな。ちょっと早く歩いただけでも息が切れる。夜は咳で何度も目が覚めて眠れん。骨ももう役に立たん気がしているよ」
祖父は脈をとりながら尋ねた。
「咳と痰は、夜がひどい? それとも昼?」
「どっちもひどいが、夜は特につらい」
それを聞いて、指月の口から自然に言葉が漏れた――
「昼咳は三焦の火、夜咳は肺の寒」
祖父は「うん」とうなずき、さらに尋ねる。
「痰は、濃く粘っこいかな? それとも水っぽい?」
「清水みたいな痰ばかりで、泡も混じってる。吐いても吐いてもきりがない。全部吐ききったと思っても、また上がってくるんだ。今はただ、どうにかこの咳と痰の苦しさを少しでも軽くできたら、それでいい」
祖父は小指月に向き直って問うた。
「この脈象からすると、病はどの臓にあると思う?」
小指月は脈を診て、答えた。
「両関の脈は沈んでいてゆっくり、寸脈はともに弱いです。つまり、心肺の陽気が不足していて、脾胃には痰湿がたまっている状態です」
祖父は指月の方を向いた。
「指月よ。病の性質をどうみる?」
指月は答える。
「諸病のうち、水液が澄んで冷たく清らかなものは、すべて“寒”に属します。痰が清く薄く量が多いのは、寒痰による留飲です。脾胃の水穀を運化する働きが弱まり、寒飲が生じ、それが心を凌ぎ肺を侵すことで、胸がつかえて咳が出るのです」
祖父は質問を続ける。
「それでは、どう治療すべきかな?」
指月は答える。
「痰飲を取り除くには、やはり“姜・辛”の味がふさわしいと思います」
祖父は笑ってうなずいた。
「そう、姜辛の味は痰飲の“標”(症状)を治すにはいい。痰の“去路”をつけることもできる。ただし、痰の“本”、つまりその発生源を治すには、六君子湯を加えるといいよ」
指月はすぐに理解し、六君子湯に「乾姜」「細辛」「五味子」の三味を加える処方をさっと書き留めた。
他の薬は理解できたが、細辛の量を見て小指月はふと戸惑った。
(三銭=約11g……そんなに使うのか? 聞き間違いじゃないか?)
「祖父? 以前、細辛は“過銭不可”と言っていましたが、よろしいのでしょうか?」
祖父は嬉しそうにうなずいた。
「指月、よく覚えていたね。それでいいんだ。確かに、細辛を粉末にして散剤として飲むときは、1銭を超えてはならない。それは安全のためだよ。だけど、今回は煎じ薬。しかもこれは寒痰・留飲という明らかな病証がある。『有病則病受(病があれば病に従う)』──病があれば、薬もそれに応じて強く使わねばならない。病が重いのに薬が軽ければ、『靴の上から痒い所を掻く』ようなものだよ。だからこそ、今回は細辛を三銭使うんだ」
有病則病受:「病があれば病に従う」とは、病があればそれに応じて薬を使い、病がなければむやみに薬を使わないということを指す。
指月は深くうなずいた。
(なるほど。細辛の“過銭不可”というのは散剤として服用する場合の戒めであって、煎じ薬で、しかも寒痰が明らかなときは、証に応じて量を増やしていいんだな」
彼は、わずか一服で夜の咳が治まり、ぐっすりと眠れるようになり、五服飲み終える頃には呼吸も楽になったという。
「不思議だな、あの痰飲は一体どこへ行ったのか?」と、彼はとても不思議そうだった。
指月にはその答えがわかっていた。
乾姜・細辛・五味子の組み合わせは、肺中の寒飲を温め気化させるには最速の処方だった。
「寒痰留飲」というのは、水のように清らかな痰が体内に留まってしまう状態で、簡単には取り除けない。
これに関して、祖父はかつて、「桶の冷たい水」を指差してこう言った。
「この水をよく見ておきなさい。それこ“寒飲”だ。水を治すにはどうすべきか? それが“治痰飲”の要だよ」
指月はその後、一週間かけてじっくり観察した末、ようやく一つの答えに辿り着いた。
――なるほど、雨の日には、水はなかなか蒸発しない。でも、陽が差して晴れ渡ると、どんどん蒸発してしまう。
人の胸肺にたまる寒痰や留飲も、「陰」がもたらすもの。
それはちょうど、雨の日の湿気のように、陰が凝り固まって水となるように。
だからこそ、「陽光」――つまり体内の陽気が盛んにならなければ、痰や飲は消えてくれないのだ。
だからこそ――
「唯制陽光可以消陰翳(陽の力でこそ陰を除くことができる)
陽気が脾と肺を温め、活性化させることで、体内の「凹んだ土地に溜まった水」=痰飲も、スッと蒸発していく。
これが祖父が伝えたかった、「陰を陽で気化する」という発想だった。
さらに、六君子湯は、脾胃の陽気を引き出し、全身の気を巡らせる要薬。
これに加える乾姜・細辛・五味子は、胸中・肺中の寒湿を蒸発させる。
食物から得た栄養(=水穀の精微)が、停滞せずに「津液」としてうまく変化し、痰飲にならないように導いてくれる。
この理をつかんだ瞬間、指月はぽんと額を打った。
「わかりました! どうしてお年寄りは雨の日になると咳がひどくなって、痰が多くなるのか――」
祖父は、静かに問いかけた。
「どうわかったんだ?」
指月は微笑みながら答えた。
「雨の日にはあの水たまりがいつまでも乾きません。でも、晴れた日は、すぐにカラカラになる。それと同じです。お年寄りは陽気が弱いから、体中の水が蒸発できない。だから雨の日は痰が多くなって、胸が苦しくなるんです」
祖父は、「そのとおり」とうなずいた。
「指月、医学を学ぶというのは、本来どんどん軽く、楽になっていくものだよ。もし行き詰まったら、自然を観察してごらん。物の姿から象をとり、陰陽・五臓の理で考えてみるんだ。そうすれば、どんなに複雑な病でも、必ず筋道が見えてくる。筋道が見えれば突破口ができ、考えがあれば治療法も立つ」
――指月はようやく気づいた。
祖父は、いつだってさりげなく陰陽の道を伝えてくれていた。
ただの小技や民間療法のように見えて、その奥には必ず、深い「伝統医学の本質」が隠されていたのだ。
そして、学ぶもの自身がそれに気づき、考え、悟ること――
それこそが、医の道の真髄なのだ。
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