昔むかしのこと、ある雷雨の夜、天台山の国清寺の門前に、金色のマントを羽織ったひとりの若者が現れました。彼は端正な顔立ちで、とくにその瞳は生き生きと輝いていました。
寺に入ると、若者は丁寧に頭を下げて尋ねました。
「師父(しふ)はおられますか?」
応対に出た老和尚は穏やかな声で答えました。
「どこから来たのかね、若者よ。何か用かね?」
「私はこの山のふもとの村に住んでいます。今日は山を散策していたのですが、思いがけず大雨に遭ってしまい、雨宿りに立ち寄らせていただきました。」
老和尚はにこやかにうなずき、「それは珍しいお客人だ。方丈の部屋でゆっくり休んでいきなさい」と言いました。
方丈の部屋には、名山や水辺の風景、仏教画や書が飾られており、たいへん雅(みやび)な雰囲気に包まれていました。部屋の中央には石の円卓があり、その上には将棋盤が置かれていました。
若者は部屋に入ると、しばらくじっと将棋盤を見つめていました。それを見た老和尚は、
「将棋に興味があるようじゃな。一局、どうかな?」
と誘いかけました。
こうして、ふたりは将棋を指し始めました。
ところが、日が暮れても一局が終わることはなく、勝敗もつきませんでした。老和尚は内心、若者の腕前に感心しました。
やがて若者が立ち上がり、
「師父、そろそろ帰らなくてはなりません」と言いました。
老和尚はあわてて言いました。
「もうすっかり日も暮れてしまった。今夜はここに泊まっていきなさい。それに、この将棋もまだ…」
しかし若者は静かに微笑んで答えました。
「ありがとうございます。でも、今夜はどうしても帰らなければならないのです。家族が心配しますから。将棋はまた明日、続きをしましょう。」
そう言って、若者は夜の闇へと消えていきました。
翌朝、若者は早くから寺を訪れ、老和尚と一日じゅう将棋を楽しみましたが、やはり勝敗は決まりませんでした。
それから数日、ふたりは毎日のように将棋を指し、親しい友となって、何でも語り合う仲になっていきました。
ところが時が経つにつれ、老和尚の心にひとつの疑問が生まれました。
(あの若者は山のふもとの村に住んでいると言っていたが、どうして毎日ここまで通って来られるのだろう? しかも夜になると必ず帰ってしまうのはなぜか…)
ある日、いつものように将棋を指しながら、老和尚はとうとう問いかけました。
「若者よ、ほんとうに君の家はふもとの村にあるのか? どうして毎晩、必ず帰らねばならぬのだ?」
若者はにっこり笑って答えました。
「師父、正直に申しますと、私の家はこの近くにあります。じつは、ずっと長くお隣同士だったのですよ。」
老和尚は驚いて言いました。
「ばかなことを言ってはいかん。この深い山の中に、家などあるはずがない。」
「いえ、私は仙人洞(せんにんどう)に住んでいます。」
「仙人洞だと……?」
若者は真剣な表情で言いました。
「私は、千年の時を生きる烏薬(うやく)の仙子です。」
老和尚は思わず首を横に振りました。
「そんなこと、信じられるものか。」
若者は静かに言いました。
「では、私の家をご覧ください。ご案内いたしましょう。」
老和尚は若者に導かれ、仙人洞へと向かいました。
洞の中は驚くほど明るく、まるで別世界のように清らかな気に満ちていました。
老和尚はその光景に目を見張りながらも、なお信じきれず、若者の手をとって言いました。
「冗談はよしなさい。本当にここが君の家なのか?」
すると若者はふっと手を振り、その瞬間、姿を消しました。
老和尚は驚き、震えながら洞の岩肌に身を寄せ、あたりを見回しました。しかし、若者の姿はどこにも見えません。ただ、洞の入り口から青白い煙が立ちのぼっていました。
やがて若者が再び現れ、手には銀の盆を持っていました。
盆の上には、数粒の不思議な種がのっていました。
若者は微笑みながら言いました。
「師父、これはあなたへの贈り物です。これは烏薬の種です。下では少陰腎経を通じ、上では脾胃の働きを整える、長生不老の妙薬です。この種を天台山に植え、その根を茶にして飲めば、あなたは若者のように若返ることができるでしょう。」
翌朝、老和尚はふたりの弟子を呼び、種を山に植えるよう命じました。そして烏薬仙子が語った飲み方を丁寧に伝えました。
それから弟子たちは種を村人たちにも分け与え、その効能と由来を語り継ぎました。
こうして烏薬は天台山に根付き、たくさんの人々に恩恵をもたらすこととなったのです。
老和尚はその後、なんと150歳まで健やかに生きたといいます。
この出来事によって、天台山の烏薬は一躍有名となり、その名は国中に広まりました。
おしまい
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